るそ

2017年 7月1日 更新 〈第64回〉

 大田昌秀さんは、琉球大学を退官されて知事選に立候補し、選挙では3万票の大差で現職の西銘順冶さんを破り、沖縄県知事に就任した。大学教授を定年退職しての画期的な知事就任である。その頃、筆者は、在京で沖縄を含む全国販路を対象に出版事業を営んでいた。

 大田さんとの最初の関わりは、今から26年前に雑誌『沖縄世論』で「東京から沖縄が見える、大田知事・支持母体のことはすべて忘れなさい」という大見出しの中で大田さんへ次のようなメッセージを送ったことだ。

 拙稿だが、大田さんに関わる思い出の原稿なので、原文のまま紹介しておこう。

 <―大田知事に照らしながら、定年退職と知事の就任年齢について考えてみよう。まず、定年退職から受ける一般的なイメージは「衰え」「疲れ」「終着駅」「隠居」などである。何故、定年制があるか、その理由は、体力の衰え、仕事の不能率、事故の発生防止、そして結果的には、後輩に道を開くということでその理由は官民ほぼ共通しているようだ。

 昨年、大学を定年退官された大田さんはこういう体力的な衰えが出始めた年齢に、しかも不慣れの政界で激務とされる県知事に就任したことになる。そして、長く向こう四年間もその重責を全うしなければならないのだから、それは精神的にも大変なことだ。

 では、前知事の西銘さんの場合はどうか。昔から政治が好きで好きで若い頃から明けても暮れても政治をやっている人達は、動物的に衰えることを知らずその生活習慣がリズムにのって老いが調和し益々意気盛んになり、政界に高齢者が多いのもその証である。西銘さんも多分その類に属するであろう。

 知事の中では、東京都の鈴木知事や埼玉県の畑知事の二人はその代表的な例である。

 学校の先生から政治家になったという人は沢山いる。しかし、大学を定年退官されてから政界に入ったという話は、残念ながらあまり聞かない。

 福岡県の奥田知事や神奈川県の長洲知事などは、勿論、大学で現職バリバリの頃に政界へ引っ張り込まれたので頭の切り替えも早く、政界でもうまく順応している。

 大田さんが四年前の知事選で立候補し、当選していたら何の申し分もなかった。

 しかし、選挙に当選し、新知事に就任した以上そんなことを言っている場合ではない。未来の沖縄県の発展の為に新知事の仕事は県民一丸となってそれを支えていかなければならない。

 体力の衰えの出始めた頃に、全く異なる世界へ飛び込んで来た大田さんだが、どうか、自らの健康管理には大いに気を配りながら向こう三年余りの知事在任中、自信をもって県政を担当し、あの中央省庁の強者役人らに負けることなく、また海千山千の他府県知事らに押されることなく、わが沖縄県を間違のない方向へ引っ張ってほしいものである。―>

 この原稿(『沖縄世論』1991年秋季号)は、ある意味では、在京後輩からの激励でもある。大田さんからの直接の反応はなかったが、のちに山中貞則元沖縄開発庁長官は「大田さんは、君の原稿はしっかり見たようだよ」と、雑誌の取材時で話していた。

          ◇       ◇

 筆者は、在京ではあったが仕事柄から大田昌秀元知事とは沢山の思い出がある。

 その中で、どうしても忘れられないのが、大田さんの三選を阻止するために筆者が編著者となって出版した『茶柱が倒れる』の本のことだ。

 大田さんの訃報を知った時、どういう訳かなんとなく書棚にある同本に手が伸びた。その「まえがき」には次のように書かれている。     

 中略<1972年、沖縄県民が四分の一世紀にも及ぶ異民族支配から見事に解放され、悲劇の祖国復帰を勝ち取った時、沖縄県民は沖縄県の未来に大きな希望を抱き、正に“茶柱が立つ”(吉事が訪れる)思いであった。(中略)

 /総理官邸での十七回に及んだ橋本・大田会談も不発に終わり、「沖縄の大田には百年の恋も冷めた」と門前払いにされるや、最早、大田知事の役割は終わってしまった。(中略)

 /二十一世紀を目前にして、このような窒息状態の中で、迷走する沖縄県民を見るとき、痛く悲しく、そして今、正に“茶柱が倒れる”思いである。

 この事態を、ただ、あれよあれよと眺めている沖縄県民も実にいくじない。

 現代沖縄のかかる県政の指導者は、沖縄県の未来像をしっかりと描ける強力な行政手腕の持ち主でなければならない、と私は思う。本書がその考察の一助になれば幸いである。― 編者 神山吉光〉

  これは、同本の「はしがき」の一部だが、いわゆる大田県政批判の本だ。当時は本土の有力週刊誌も同本出版のことを大々的に報じて、沖縄県民の関心も高まり、県内では6週間連続1位のベストセラーになった。

 詳細は省くが、結局、選挙では様々な要素が重なって大田さんの三選が阻止され、稲嶺恵一さんが当選した。

 『茶柱が倒れる』が有権者の投票行動にどの程度の影響を与えたかは別として、後々の情報を総合すると、大田さんにとっても「茶柱が倒れる」はある意味で忘れられない本であったことだけは間違いないようである。

          ◇       ◇

 大田さんの知事在任中の記者会見の中で、今も筆者の脳裡に強く焼き付いているのがある。

 〈普天間飛行場は米軍が沖縄県民の意志を無視し、強制的に造った基地であり、それを県内に移設することは、新たな基地を沖縄県民自身が認めたことになる。日米安保が国民にとって必要と言うならば、その負担も国民全体で負うべきではないのか。戦後五十年余り、沖縄にだけ犠牲を強いて、いったい沖縄県民はいつまで我慢すればいいと言うのか〉と大田さんは全身で怒りを露わにして、テレビカメラの前であの大きな体を震わせていた。

 その時の大田さんの怒りの目は、まるで猛獣の様であった。あの会見シーンが筆者にはどうしても忘れられない。強く印象に残っている。

 国に対して、沖縄県民の心を堂々と代弁していたあの姿は実に勇ましかった。あの怒りの会見で大田氏の人気は急上昇し、全国的にも大田さんは「時の人」となった。筆者も、機会あるごとにそのことを自らの論考に記述した。

 現在の翁長雄志知事も、大田さんと全く同じ内容で基地問題を語っているが、ところがその迫力が全然違う。

 昔の想い出の中から故人を偲ぶ追懐だから言うのではない。全体の政治姿勢として、大田さんからは微々たるパフォーマンスも感じる事はなかった。大田さんの体内に宿っている平和思想と基地問題は全て本物だった。それが迫力の源泉にもなった。

 しかし、もう大田さんは帰らぬ人となってしまった。誠に残念である。

 過日、旧知にある経済界の大先輩から「神山君も県民葬には行くのか」と、意地悪な問いかけがあったが、「勿論行きます」と返答した。

 7月26日の県民葬では深々と脱帽し、大田さんのご功績を称え、そしてご冥福を祈ることにする(合掌)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

次回は8月1日更新。毎月1日定期更新。その他必要に応じて随時、適時に更新いたします。どうぞ、時折に本ブログをお開きください。

神山吉光 沖縄事務所 〒902-0068 那覇市真嘉比3丁目14番7号(602) フリーダイヤル 0120−885−989 本人直通 070−5536−8137 FAX 098−885−4570