2017年 12月15日 更新 〈第69回〉

沖縄米軍機事故 「米軍よ もういい加減にせんかい」 〜翁長知事は政府と米軍に断固として立ち向かえ〜

大惨事を思わせる米軍機事故

 沖縄県民は誰もが「またか!」という思いがするだろう。絶対に許せない米軍機による事故がまた起こった。

 13日午前10時頃、米軍普天間飛行場所属のCH53E大型輸送ヘリの窓が宜野湾市立普天間第二小学校の運動場に落下したのだ。落下した窓には金属製の外枠があって、重量が7,7キロもあり、事故発生時には体育の授業で落下地点から10メートル横には子ども達が54人もいたという。一歩間違えば大惨事になるところだった。

 おりしも13日、事故当日はあの普天間所属のオスプレイが名護市安部の海岸に墜落して1年。その間、沖縄県民は基地の負担軽減を訴えつづけてきたが、それどころか米軍はまるで同事故の一周年記念を象徴するような事故を再び沖縄県民の前に曝け出してしまった。

 いわんや、今回の事故は1週間前に1キロ離れた緑ヶ丘保育園の屋上にも米軍ヘリの部品が落下したと見られる事故が発生し、近いうちに又何かが起こるのではないか、と県民の不安と怒りがいつもとなく高まっている最中の出来事である。

 今回事故を起こしたCH53Eの前身ヘリCH53D大型輸送ヘリは、2004年に宜野湾市の沖縄国際大学に墜落し、沖縄県民の脳裡にはその事故のことが現在も強く焼き付いている。

 また今回のCH53Eヘリは1999年に国頭村安波沖で墜落し、乗組員4人が死亡。特に今年になってからも6月に久米島空港に緊急着陸し、10月には東村高江で炎上の事故を起こしている。そして今回の事故だ。

 国を守るためには、日米安保の狭間で一定の基地負担は容認するものの、このような事故の多発は絶対に看過できない。米軍はもういい加減にして欲しい。

翁長知事の生ぬるい対応と沖縄二紙の変化

 翁長知事も事故当日は現場を視察し、<「一番事故があってはならない場所だ」と述べ、日米両政府へ強く抗議する意向を示した。知事は「日本やアジア地域の安全保障を守るために、沖縄だけが危険な目に遭っている」と指摘。相次ぐ事故により県民の生命、財産が脅かされている現状を「不条理」と表現した上で「差別的な安全保障の在り方を政府にも米軍にも伝えないといけない」と訴えた。さらに「事故はまたいつ起きるか分からない」と述べ、政府が県と約束した普天間飛行場の5年以内の運用停止を改めて求める考えを示した。>(14日沖縄タイムス)

 県議会も与野党を問わず一斉に反発し、米軍と沖縄防衛局に抗議をした。これまでと変わらないパターンではあるがそれは当然のことだ。

 ただ、大惨事前とした事態に直面して、沖縄県政の最高責任者として知事には本当にあの程度の抗議でいいのかどうか、どうも生ぬるい感じがする。

 知事は事故当日、現場に駆けつけては行ったものの、同日にポール・ロック米海兵隊太平洋司令官が謝罪の為に県庁を訪れた際には、富川副知事に対応を任せた。知事にはテーブルを叩いて満身の怒りで抗議して欲しかったが、翁長知事は加害者的立場の司令官と直接の対応さえしなかった。そして14日には抗議の為に上京したものの、安倍首相との面談はかなわず、知事が抗議の為に面会できたのは14日に山本防衛副大臣と15日の菅官房長官だ。

 もとより政府側の対応も問題だが、同時に県政を預かる翁長知事の政治的非力と米軍事故の抗議に対する知事としての抗議手法そして迫力不足も問題だ。

 どうしても我慢が出来なかったのか、珍しく「沖縄タイムス」と「琉球新報」の14日、15日の「社説」は次のように結んでいる。

<ーオスプレイに関する問題の発信が弱いことは否めない。県を中心に全国への発信を強化し共感する知事を増やす必要がある。米軍基地問題を全国的な問題にすることで、オスプレイの配備撤回を実現したい。ー>(15日琉球新報)

<ー事故のたびに同じことが繰り返されるのは、沖縄の側の「弱さの表れ」という側面もある。「弱さ」とは、政府や米軍を本気で動かすだけの取り組みが足りない、という意味である。選挙中は抗議行動にも議会決議にも熱心だが、選挙が終わると後が続かない。政府は沖縄のそのような弱点を熟知しているから、いつも敏感に反応するが、抜本的な対策を打ち出すことはなく、事故は繰り返される。状況を根本から変えるような大きな取り組みが必要だ。ー>(14日沖縄タイムス)。平素から翁長県政を支持している沖縄二紙にもこのように変化が見られる。

 同感だ。両社説の結び部分は沖縄二紙の翁長県政への批判と警鐘の予兆がする。そうであれば大いに結構だ。翁長知事には日米安保を堅持するためにも、米軍の事件事故が多発しないように政府と米軍に対して断固と立ち向かって欲しいものだ。

                              <完>

      ーーーーーーーーー<神山吉光が吠える・特別企画>ーーーーーーーーーーー

 復帰当時の屋良朝苗沖縄県知事は、沖縄教職員会(現沖教組)会長から、復帰前の主席公選に立候補した初の革新主席(復帰時の知事)であった。

 主席公選では、政府自民党と沖縄自民党が本土との一体化を主張し、激しい選挙戦となったが、保守側から立候補した西銘順治氏(当時、那覇市長)は惜敗した。

 沖縄の復帰準備に当たる最後の行政主席には、当時政府自民党と直結した保守系主席誕生が、沖縄側にとっては得策であると考えられたが、しかし、沖縄担当の山中貞則初代沖縄開発庁長官は、その逆が得策であると見ていたようだ。

 又、今回の対談では復帰時のドルと円の通貨の切り替えに絡む、佐藤総理の心境や新聞では報道されなかった、その内情などが明かされた。

沖縄の革新を大所高所から

山中 あの頃、確かに自民党の一部にも「山中はあまり沖縄の革新主席に加担しすぎる。結局は革新政権の功績にとれるのではないか」という人もいました。しかし、それは次元が違います。私は、私が動くことが革新屋良政権の功績になろうとそんなことは構わない、要するに、沖縄県民全体の為になればそれで結構ということです。

神山 では、屋良さんの話が出ましたので、ついでに山中先生から見たところの当時の行政主席としての屋良評を伺いましょうか。

山中 (暫く黙って、その後に) 私と屋良主席・屋良先生とは台湾時代の師範学校で恩師と教え子の関係、師弟関係にあるんです。(教え子が恩師を評するわけにはいかないという様子)

神山 私は、屋良主席は、政治家というよりも教育者であったと思います。昭和四十四年、佐藤総理がニクソン大統領に「沖縄返還」の了解を取り付けて帰国します。その折、帰国する佐藤総理を沖縄の主席として羽田空港に出迎えに行くべきか、どうするか、当時沖縄側の民意は真っ二つに割れていました。屋良さんは両論に挟まれて悩みに悩み熟慮の末ようやく佐藤総理のお迎えに出ることを決断し、そのために那覇空港を発ち東京へ向かいます。

 ところが、東京のホテルには多くの民主団体から「主席は出迎えに行くな」の抗議電報が寄せられていた。その山となっている電報を見た屋良主席はそこでも一晩中考え込み、とうとう佐藤総理の出迎えに行くことを断念し空身で沖縄へ戻ってくる。小学生の遠足でもあるまいし、行政主席たるものがいったい何をなしに東京まで出向いて行ったか、といいたい。あの時、屋良さんは自民党の保利茂さんから大声で怒鳴られていたというエピソードもあります。

山中 確かに、そういうこともありました。あの時、屋良さんを羽田に向かわす為に自民党内でもいろいろな人たちが動いていたと思います。

神山 政治家というのは民意を指導するのが政治家だと思います。しかも、あの時、ホテルの屋良主席に打たれている電報は全て革新団体が発信したものであり、それは屋良主席のいわば支持団体です。自分の支持団体であればこそ、その意見を自分の考える方向に説得し、屋良主席は自分の意志を貫くべきだったと思います。政治家にとって最もみっともないことは自らの軌道を修正することです。

山中 しかし、ある一面に於いては、沖縄が復帰する前の県政はああいう革新の屋良さんでよかったと思いますよ。

神山 沖縄の屋良革新政権と日本政府の保守自民党政権は、あの頃、仕方なく調和して復帰準備を進められていたと思いますが、只今の先生の話はどういう意味でしょうか?

山中 だって貴方そうでしょう。あの時、もし沖縄が保守政権つまり自民党主席であったら、それこそ全ての革新政党・革新団体が保守党の打ち出す施策・復帰の進め方に対して確実に反対してくる。自分たちが支持して当選させた屋良主席だから、革新政党は反対する訳に行かない。それが逆になっていたら、それこそあれも反対、これも反対で復帰の仕事は進みません。そうでしょう? 私は総理にも言いましたよ。「総理、あれ(革新屋良主席知事)でいいのです。あれだからきわめて順調に仕事も進みます。我々が欲を出して自民党主席にでもしていたら、今頃沖縄の革新政党と民主団体は自民党主席の打ち出す復帰施策に総立ちで反対していますよ。しかし、今の屋良さんには反対することが出来ない。だから当分の間、屋良主席でいいんす。」このように所見を述べると総理も同感していました。

神山 ところが、佐藤総理を羽田に迎えに行く!行かない!の問題で屋良主席は革新団体の圧力に屈してそれを断念している。事実、それら革新の反対を抑えることが出来なかった。

山中 それは、反対を抑えることが出来なかったのではなく、あの問題に関して屋良さん自身も自分の中にある種の迷いがあったのではないかと思います。だから、説得できなかったのではないか。

神山 本土政府は屋良主席をはじめ沖縄の革新の動きを大所高所から判断されて実に上手に協力させる方向に指導しています。私はそれが政治家だと思います。「逆も真なり」と言いますが手法の一つで逆が真に変わったような気がします。

山中 現実にああいう過去の手法が沖縄の発展にも結び付いているのです。

神山 ああいう手法をとるのも一つの政治手腕であり、それを成功させたということは、正に政治家の力量だと思います。ところで、いろいろな人、さまざまな団体がありましたがその中で「この連中は困ったなあ」と不快を意識することがございませんでしたか?つまり、復帰準備を進める上で障害となった個人や団体のことです。

佐藤初訪沖の請願デモ隊は心外

山中 言われる通り、いろいろな人、さまざまな団体の代表と会っているが、特に復帰準備を進める上での障害と意識するような人たちや団体はなかったと思う。ただ、思い出の一つに復帰前の佐藤総理初訪沖(昭和四十年八月)の際のあの請願デモには驚いた。あれは多分復帰協が主催したと思うが、あれには、さすがの総理も弱っていたよ。

神山 あの日は、確かに復帰協が中心となって、全県各地で抗議デモが展開されています。

山中 人様が寝倉に帰るのをそれを妨害して帰さないと言うのだから大変なデモです。総理一行が宿泊先に指定してあった東急ホテル前の道路はデモ隊によって、完全に占領されていた。車も通れない。勿論、歩いてホテルに行ける状態でもない。最後は、私がデモ隊に飛び込んで行き、説得を試みたが、やっぱり駄目だった、と言うよりも実際には那覇署からも「警備に責任が持てないので、山中先生も現場から直ちに立ち去って欲しい」という警告もだされていたのでそれに従うことにした。

神山 実は、私もその時、あのデモ隊の中にいました。しかし、請願デモに参加しているのではなく当時の自社紙の取材の為です。ちょうどその日は天気も良く、真夜中の十一時頃だったと思います。山中先生が、数人の男に守られながら、人垣を分けて、デモ隊の中に入って行かれたあの姿。そして、あそこで、デモ隊を説得していたあの光景が今でも記憶にあります。

山中 (腕を組み視線を上しながら考える様子で)私がデモ隊に対して「皆さんの気持ちはよく分かる。しかし人は皆自然に寝倉に戻る。人様が寝倉に帰るのをそれを妨げることは主義思想とは別の問題ではないか。とにかく、今夜のところは、総理をホテルに帰してほしい。又、明日でも日程をとって話し合おうではないか」とくり返し説得を続けていると次第に周囲は静まり返っていた。ちょうどその頃那覇署から「警備に責任が持てない」といわれたので、私も現場を退くしか方法はなかった。

神山 あそこ(天久の東急ホテル前)の道路を占拠していたデモ隊の中には、政党、民主団体、労組、学生、一般市民ら多くの組織が参加しています。最も請願デモで秩序正しく行動していたのが沖縄人民党(現日本共産党)であったと思います。私は隣のビルの屋上から現場を密着取材していましたが、人民党の周囲が最も冷静で知的な感じがしました。彼らはデモの嵐の中でも古堅実吉書記長の指揮の下で完全に請願デモの統制がとれていた。最も過激であったのは学生と一部労組です。ところであのような過激なデモ隊に直面された佐藤総理ご本人はあの時どのように感じられたか。あの時の総理は側近の山中先生に何を話されましたか。

山中 あのデモ隊に直面した総理は、「山中君、僕は沖縄の人々の為に悪いことをしているのだろうか」の一言です。私の返事を聞く風でもない小さい声で弱く一人言のように総理は言われた。私が「総理それは違います。沖縄の人々には、長い間、異民族の支配に喘ぎそしていよいよ復帰が具体化しつつある時、その復帰準備は、保守自民党の手によって進められている。このことに対する反発とある意味の戸惑いを感じているのです。必ず総理の気持ちがわかるときが来ます。」

と話しても、総理はそれを聞いているのか聞いていないのか目を瞑り黙ったままであった。沖縄問題を審議する全委員会に出席し一つ一つ丁寧に答弁される、昼食、夕食も委員会の控室でとる程実に真剣で懸命であった。佐藤総理からすれば、あの請願デモ隊の行動(総理一行をホテルに返さない)は、誠に心外であったと思います。

神山 佐藤総理に“非礼”といえば非礼に当たると思います。だが、当時は沖縄の島全体が復帰運動で揺れ動いており、誰にもそれを押さえる力はなかったと思います。あのデモ隊が見事にそれを象徴しています。佐藤総理の心にも強く焼き付いたのではないかと思います。ご存知の通り、佐藤以前の歴代総理の中で沖縄を訪問したのはたった一人。昭和十八年の東条英機首相だけです。しかも、それは戦時中、東条が東南アジアの前線視察から帰途に立ち寄ったもので、特に課題を持った公式の訪問とは言えません。県民の間でも、その記憶はほとんど残っていないと思います。従って佐藤総理の訪沖は沖縄県民の立場からすれば、祖国の総理の初訪問であり、総理に直訴の出来る絶好の機会です。また、沖縄の復帰問題を背負っている権力強大な総理であることを考える時、その感を一層強くしたと思います。

山中 異民族支配の下で日の丸を手にして長い間にわたり、祖国復帰を叫び続けた県民の心と魂そして、いざ復帰となれば、どのような形で帰るかという不安と、苛立ちの気持ちが根強く広がっていたことは、よく理解できます。総理も過激なデモ隊に、会うことはある程度心得ていたようです。

神山 あの日とうとう、佐藤総理一行は請願デモ隊に通行を遮断されて、宿泊予定の東急ホテルには戻っていません。つまり請願デモによって、日本の総理が外泊を強いられています。ところであの夜、佐藤総理はどこでお泊りになったんですか。後日になって与儀の南方連絡事務所や主席公舎、そして北 谷の米軍施設(高等弁務官舎)などと総理の宿泊先については、いろいろな情報が流されています。ところが、南方連邦事務所(現那覇署の位置)や主席公舎(現知事公舎)も当日はしっかりとデモ隊が配置されており、又米軍施設に於いても、日本の総理が自国の領土内で他国の軍事施設内に宿泊するということは先ず考えられないことです。間もなくして、当時の琉球政府は「佐藤首相は松岡主席の私邸に宿泊された」と発表していますが、それも総理の立場に配慮した儀礼発表と受け取っている人もいます。あの夜、佐藤総理はいったいどちらに宿をとられたのか復帰の裏話の一つとしても大いに関心があります。

山中 あの日、確かに米軍施設も米軍施設も仮宿泊先として、検討されていたことは事実です。しかし、最終的には、佐藤総理は、琉球政府の発表通りまちがいなく、松岡主席の私邸にお宿をとっています。あそこ(松岡私邸)には、ちゃんと総理が用いた寝具を記念にとってあるという話も聞いています。それは発表の通りです。

神山 あの発表を聞いて沖縄県民は佐藤総理に深い親近感を抱いたと思います。まさか、祖国の総理が自分たちを支配している米軍の施設に宿泊するわけがない、そうあって欲しくないという県民感情があったからです…。話題を変えて、次に移ります。

(次号へ続く)

神山吉光 沖縄事務所 〒902-0068 那覇市真嘉比3丁目14番7号(602) フリーダイヤル 0120−885−989 本人直通 070−5536−8137 FAX 098−885−4570

ーーーーーーーーー<次号、現代公論のご案内>ーーーーーーーーーーー

現代公論 2017冬季号

  2017年「冬季号」目次概況   

定期購読者拡大キャンペーン実施中

 「冬季号」から誌面サイズを従来のB5判から、手軽で利便的なA5判に改善し、頁は60頁から72頁に増頁、そして、定価も650円から600円(税込)に値下げして,お求め易くなります。

 また、従来の定期購読者の購読料は4回分前納制から配本後に1回単位の後納制に移行し、新規の定期購読者は1回単位の前納制になります。どうぞ、定期購読ご希望の読者はご指定の方法でお申込みください。