解り安く、面白く、パンチの効いた時事評論

神山吉光が吠える

2015年2月15日〈第29回〉

 

沖縄の新聞よ 社会の木鐸たれ 

~ 新聞の使命を忘れた沖縄の二大紙 ~ 

 

 昨日(2月14日)は高校の同窓会があり、その帰路の車の中で友人西田健次郎君からこの頃に、自ら『世界日報』に寄稿したという新聞コピーを渡されたので、今回はこの全文から先に紹介しよう。

 友人西田君の新聞寄稿

西田さん

西田さん

 <沖縄のマスメディア、特に新聞2紙(琉球新報・沖縄タイムス)の報道姿勢は明らかに偏向しており、客観的事実をまじめに追求すべき新聞本来の役割を放棄していると断ぜざるを得ない。
 結果として、読者や多くの県民をミスリードする愚を冒し、マスメディア全体の信頼性を揺るがしている。事実とかけ離れた無責任な報道にあきれ、言論機関としてあるべき姿を求めるのは良識ある読者の願いであろう。
 沖縄マスコミの内実を極めて象徴するような具体例を挙げよう。
 昨年の平成26年12月9日琉球新報と沖縄タイムスは、石垣市の中山義隆市長が市議会答弁で、同年11月16日に実施された沖縄県知事の結果について「『マスコミがあまりにも仲井眞弘多氏(当時の現職知事、落選)へのネガティブキャンペーンを張ったためだ』との見解を示した」と小さく報じた。中山市長の発言は、沖縄マスコミの一方的な偏向報道をズバリ指摘したのだ。
 将来の日本の安全保障や日米同盟とも関連して、沖縄県知事選は全国的にも注目されたが、普天間飛行場の辺野古移設「ノー」の「新基地」反対候補が当選した。当時の現職知事が辺野古崎の一部沿岸埋め立てを承認した一年前あたりから徹頭徹尾批判キャンペーンを展開していた地元2紙は、選挙戦に入るや、「最大争点は新基地建設」と共産党など辺野古基地反対陣営のフレーズに乗っかり、ことさらに現職批判=新人有利の煽り記事を連日のように掲載したのである。選挙妨害とさえ言えるような常軌を免脱した選挙報道は、中山市長ならずとも公平中立を標榜する言論機関のなす技とはとても言えるものではなかった。
 中国海警局公船が日常的に領海侵犯を繰り返す尖閣諸島を行政管轄に置く石垣市並びに市民は、国防にはことのほか敏感だ。日本及び東アジアの平和と安定のために尖閣海域はぜひとも守らなければならないと考えるからだ。
 しかし、「反日反米」を基調とする沖縄マスコミは、日本の領域が侵犯されてもほとんど取り上げないか、扱いが小さい。本土の有識者が指摘するように、「沖縄のマスコミは事実を公正に見ようとしない歪な体質だ」といわれても仕方ないだろう。
 「慰安婦」問題や福島第一原発事故の「吉田調書」問題で、朝日新聞の捏造、虚報が明らかになり、テレビを含むマスメディアの責任が厳しく問われた。朝日新聞はかつて、1989年に沖縄海域のアザミ珊瑚に同社記者自身でキズをつけ、「誰がやったのか」と恥ずべき捏造記事をでっち上げた前歴がある。自社の主張に拘泥するあまり、捏造や虚報が生み出されたと推測できる。
 このような事態にならないよう沖縄のマスコミにも事実と即した正確な報道を切に望むとともに、「沖縄で公正な報道に務めている新聞」と認識されている世界日報が確固たる基礎をつくり、更なる飛躍をとげることを祈念してやまない。>
 これは西田君が「世界日報」の元旦号に「沖縄での公正な報道に期待」と題して、寄稿した全文である。全く同感だ。その内容に共鳴する読者も多く、本人も予想外の反応に驚いているという。

読者が「新聞」を葬る日

 『沖縄世論』にも書いていることだが、新聞は民主主義の発展に欠かせない重要な道具であり、その道具の使い方を誤れば大変な魔力を発揮してしまう。偏向報道によって不都合の真実や他方の言論を封殺した場合がこれに当たる。また、戦前戦中の新聞を反面教師として、権力の側と対峙するだけでは新聞の本当の使命が果たせないことも当然である。
  毎年、秋の新聞週間になると日本新聞協会では「新聞標語」を発表して、その使命を謳歌しているが、時として新聞の現実と標語には大きな乖離があるのではないか。特に近年、沖縄の二大紙の偏向した報道姿勢にはその感を強くする。
 shinbun222昨年11月の知事選を前に、その立候補者の顔ぶれが次々と新聞で報じられた頃、私は「知事選で革新側が候補者を立てずに、仮に翁長雄志氏(当時那覇市長)が、市議会保守と経済界の一部から支持を得て立候補するようになれば、その出馬表明の時点で注目の知事選は終わりだ。翁長氏の圧勝になる」と予測していたが、正しくその通りの結果になった。
 それは翁長氏の支援体制がどうのこうのと言う訳ではなくて、知事選では新聞が間違いなく反辺野古の翁長氏を全面支援すると読み込んだからである。つまり、選挙勝利の為の偏向報道である。
 では、本当に偏向報道なのかと言われれば、どうしても看過出来ない代表的な例を1つだけ挙げよう。
 昨年9月21日の琉球新報の紙面のことだ。前日の9月20日、翁長氏を支援する団体が主催した辺野古での県民大会の記事が、1面トップ半頁カラーの扱いであるのに対して、その一方、9月21日に仲井眞氏を支援する団体が主催した宜野湾市での県民大会は、2面の片隅わずか1段見出しで小形写真1枚を載せて報じただけである。
 これだけでも沖縄の代表紙が公平公正でないことが分かる。(写真参照)
 知事選に敗北した仲井眞前知事も「新聞に負けた。」また沖縄の2大紙を指して「持定団体のコマーシャルペーパーだ」と評していたが、全くその通りだ。
 沖縄の新聞は本当にこれでいいのだろうか。このような偏向報道を是正しない限り“民意”が新聞の思う方向に形成されていくことに大きな危機感を覚える。
 「嘘も百回聞けば真実に聞こえる」という。たとえ仮に間違ったことを過大に、又は小さくでも繰り返し繰り返し報道されると、読者はそれが真実と思うようになる。これが偏向報道の恐ろしさであり、魔力でもある。 

新聞に理想だけを求めているのではない。報道には公正中立であれと警鐘を鳴らしているのだ。現代のようなネット社会が急激に発達していく時代に、どうやら新聞にも“天寿”があるような気がする。新聞の偏向報道が改まらない限り、広範の人心が新聞から去り、読者が新聞を葬る日が必ず来るであろう。読者には本物を見分ける“眼力”がある。
 新聞は社会の木鐸と言われている。 特に沖縄の2大新聞には“社会の木鐸”たらんことを改めて強く願うものである。